館で、家譜のコピーを、取ることができます。 薩摩が琉球に入ってきた後に、王府より功績が認めら れて、士族に取り立てられた、新参の人たちです。 一方、港川の姓から、調べてみると、『氏集』の1640番 に、首里士族の吉(よし)氏 103 64 83 3 123 2 96–107 (1882). 35 48.0 33 124, 43.2 41 41 40.5 琉球王府の印が押された「家譜」が、残っているかどうかは、 那覇市歴史博物館が発行している、首里・那覇の士族の 「氏集」などから、調べることができます。 しかし、過酷な地上戦を経た沖縄では、位牌や「家譜」 58.5 36 180 106 136 当時王府は、国家を構成する社会集団の組織化を「身分制の編成」という形で推し進めており、「家譜」制度の創始はその根幹をなす施策であった。. 士族の「家譜」は、約2800の氏家譜がありました。. 琉球家譜目録データベース作成プロジェクトについて 琉球の家譜(系図)とは、近世の琉球国において士族のみに所有が許された家々の記録のことです。琉球には四百余系の士族の門中(男系血族集団)があり、本家・分家あわせて約三千冊の家譜が作成されていました。 大正1年(1912年) 5 琉球藩・沖縄県の士族. その後、琉球では、王命により琉球王家の歴史書である『中山世鑑』が羽 地朝秀によって編纂され(1650年)、さらに琉球士族の家譜作成のために系 図座が設置され、1689年には家譜の作成が始まった。 1712年には、追加的 な第2次の家譜編纂が行われた。 家譜資料 当館収集の家譜資料(閲覧用複製本)。『氏集』という家譜目録に準じて収集。約950点。 TEL : 098-869-5266 FAX : 098-869-5267 〒900-0015 沖縄県那覇市久茂地1丁目1番1号パレットくもじ4階 アクセス お問い合わせ 0 第一章 士族早わかり・・・士族、家譜、門中について解説あり 『沖縄近世史の諸相』(田名真之著 ひるぎ社 1992年) 【K205/D35】 第Ⅱ部は家譜についての論文を集めている。p95-131「琉球家譜の成立と … 明治24年(全高中) 0 55.0 1 41 36 46 23 42 しかし、すべてが保管されているわけではなく、沖縄戦でほとんどが灰へ。. 琉球王国接貢制度の研究 清代における「接貢」に関わる人々の往還の分析-家譜資料を中心に- 平成26年度 琉球大学大学院 人文社会科学研究科 比較地域文化専攻 冨田 千夏 31.2 17 71.3 130 38.7 33 3 25 0 77 43.9 71.1 40 38 48 71 琉球王国での有力士族、下級武士、庶民の暮らしぶりは? 63.1 0 44.0 68.8 29 34 32 琉球の家譜(系図)は、士族のみに所有が許された家系に関する記録である。. 0 42 15 61.3 6, 0 56.3 36.9 59.5 82 66.1, 36,548 0 35.4 明治政府により 琉球王国 が 琉球藩 とされた後、 王子 を華族の構成員とし、位階を持つ 筑登之 以上の階級のものが士族とされた 。. 54 24 49 21 66.4 9–22 (1882). 50 本史料は首里系士族麻姓の家譜を筆写しガリ版刷りによって刊行したものである。記述は西原家の本家にあたる麻姓田名家の一世真武(麻普蔚)から十三世真敦(麻惟寅)までの写しである。なかには、製糖法や甘薯栽培を広めた儀間真常(六世麻平衡)の記述も含まれている。 0 67.0 56 譜代とは古くからの士族の家柄、新参とは新たに士族になった家柄のことを言う。 具体的には1689年の家譜編纂の時に、 尚寧王 代以前から仕官していた家柄を譜代とし、その後の仕官者、またそれ以前から仕官していても 天啓 ・ 崇禎 年間(1621年 - 1640年)に子孫が仕官していなければ新参とされた [4] 。 53 36 43 1 2 40.6 沖縄の士族は全員が、日本の名乗り(姓名)以外に必ず中国風の姓名(唐名)を持っておりました。これは、ずっと昔の事ではなく、沖縄では明治12年、廃藩置県で琉球王国がなくなるまで、士族の方々は中国風の姓名をもっています。 60.4 …17世紀末からの第一、二次の家譜編集の結果、士族人口が急増したことから失業者があふれていた。王府は役職を輪番制にするなど対策を講じたが、根本的な解決策とはなりえず、尚敬王代にいたって従来禁じていた細工職や商業への 琉球の位階(りゅうきゅうのいかい)とは、沖縄本島を中心に存在した琉球王国の身分序列である。第二尚氏王統の第3代・尚真王の治世(在位1476年 - 1526年)に位階制度の基本が確立された。まず、1509年、金銀の簪(ジーファー、かんざし)によって貴賤の別を定め、次に1524年には、六色の冠(ハチマチ)によって等級が制定された。, その後、18世紀初頭に程順則らによって「琉球国中山王府官制」(1706年)が制定され、九品十八階の位階制度が確立し、1732年には、蔡温らによって位階昇進の細目を記した「位階定」が制定された。国王、王子、按司などの王族は、九品十八階のさらに上に位置し、平民はその下に位置した。, 王族のことを按司部という。また、国王の子女を、古くは「おもいぐわべ(思い子部)」とも言った。「おもい」は接頭美称、「ぐわ」は子供、「べ」は階層の意味である。, 王族は九品十八階のさらに上位に位置し、最高品位の無品(むほん)とされた。王子や按司は国王の親族のため、公平性を期すため最高職である摂政(シッシー)を例外とすれば、系図奉行や寺社奉行など政治には直接関わらない役職に就くことが多かった。王子、按司は一間切(今日の市町村)を采地(領地)として賜り、一括して按司地頭とも呼ばれた。また、親方部に属する総地頭と併せて、広義には総地頭とも称する。, 王子、按司は、一般に采地とする間切名を家名にして今帰仁王子、本部按司などと称した。また、王子、按司の邸宅は御殿(ウドゥン)と呼ばれ、これがそのまま按司家を指す尊称にも使われた。今帰仁御殿、本部御殿のごとくである。なお馬氏国頭御殿は王族以外の御殿家としては唯一の例外である。, 基本的に国王の子、王叔、王弟の称号および位階名である。正室の子を直王子、側室の子は脇王子といった。また世子(世継ぎ)は中城(ナカグスク)間切を采地としたため、特に中城王子と呼ばれた。王子は一代限りで、王子の子は按司となった。, 琉球で王子の称号が使われだしたのは、明の冊封を受けて、王号が使用されはじめた以降のことである。実際に王子号が用いられるようになったのは、第二尚氏王統が始まってしばらく経ってからと考えられている。第3代尚真王の時代に建立された玉陵の碑文(1501年)には、「中くすくのあんし まにきよたる(中城の按司・真仁堯樽、後の尚清王)とあるように、王子のことをまだ「あんし(按司)」と表記している。, 後世の史書では、第一尚氏王統下の王の子や第二尚氏王統初期の王の子にも王子号を用いているが、これは史書編纂の折、王子に相当する人物ということで王子号を用いたのであろう。実際には当時は王の子たちも按司を称していたと思われる。, 王子は、他に功績のあった按司、江戸上りの正使に任命された者、摂政に就任した按司なども賜った。この場合は、従王子と呼ばれた。羽地王子朝秀などがその例である。王子は赤地金入五色浮織冠を戴き、金簪を差した。, 王族のうち、王子に次ぐ称号および位階名で、王子や按司の嗣子がなった。つまり、按司は王家の分家当主が賜るもので、日本の宮家当主に相当する。按司はアジまたはアンジと発音し、主(あるじ)からの転訛とも言われている。それゆえ、按司は当て字である。, 元来、按司は地方の支配者やその家族など、支配者階級にある人物の称号であったが、第二尚氏王統下になると、もっぱら王族の称号および位階名となっていった。玉陵の碑文には、王の子並びに世添御殿の大按司、聞得大君の按司、佐司笠の按司というように、王母、上級神女の敬称辞としても按司が使われている。前項で見たように王の子はのちに王子と称するようになった。, 当初按司の子は皆按司を称したが、尚貞王の治世の1692年以降、嗣子のみが称するように改められた。これには王府財政の問題が関わっていたとされる。按司は大功があると王子位に陞(のぼ)ることもあったが、歴代当主に功績がなければ、七代で士分に降格となった。赤地五色浮織冠か黄地五色浮織冠を戴き、金簪を差した。, 士族のことを、琉球では士(サムレー)と言い、俗にユカッチュ(良かる人、の意)とも言った。なお、士族という用語は、1869年(明治2年)に明治政府が各藩の藩士(一門から平士まで)の族称として用いたのが最初である。古琉球期には「下司(げす)」とも呼んだ。「崇元寺下馬碑」(1527年)に「あんしもけすもくまにてむまからおれるべし」(按司も下司もここにて馬から下りるべし)とある。, この下司と呼ばれる士族階層の中にはさらに、「あすたべ(三司官)」、「大やくもいた(大屋子もい達)」、「さとぬしべ(里主部)」、「げらへあくかべ(家来赤頭)」、「おゑか人」等の諸階層があった[1]。「あんしもけすも」とあるように、すでに16世紀初頭には、王族(按司部、思い子部)とそれ以下の士族階層とを区別する差別意識があったことがうかがえる。近世になると、下司はギシと発音して、主として地頭職にある上級士族を指すようになった[2]。, 正一品から従四品までの士族は上級士族に相当する。士族のエリートで国政の要職を司った。親方になると、原則として一間切を采地として賜り、総地頭と呼ばれた。しかし、これは建前で実際は采地の不足から、親方位であっても脇地頭にとどまる場合が多かった。脇地頭とは、間切内の一村を采地として賜る地頭職のことである。この場合は脇地頭親方と呼ばれた。『琉球藩雑記』(明治6年)によれば、王朝末期の時点で総地頭職にある親方が14名であるのに対して、脇地頭親方は38名と実に2倍以上に上っている。, 親雲上(ペークミー)は、一村を采地として賜り、脇地頭の職についた。黄冠を戴いた。親方、親雲上(ペークミー)とも、普通はその采地名から、それぞれ浦添親方、知花親雲上などと称するが、采地名が王子領や王家直領と一致をする場合は同一の呼称をさけた。具体例で言えば中城間切(中城王子領)の地頭が伊舎堂、佐敷間切(王妃領)の場合は森山と称したごとくである。親方と地頭職にある親雲上の邸宅は殿内(トゥンチ)と呼ばれ、その家柄を言う場合には、一般に豊見城殿内(とみぐすくどぅんち)や儀間殿内(ぎまどぅんち)という言い方をした。, 士族が賜る最高の称号で、国政の要職についた。親方は世襲ではなく、功績のある士族が昇るものであったので、親方の子が必ず親方になるとは限らなかった。とはいえ、その大半はやはり首里を中心とした門閥によって世襲されていた。親方は紫冠を戴き、花金茎銀簪を差した。正二品以上に昇ると、金簪を差した。, 親方の称号は古くはなく、17世紀頃から使われ始めたようである。それ以前は、かなぞめ親雲上(紫の親雲上)と称した。これは紫冠に由来するものと思われる。親方は、『琉球国由来記』(1713年)の「官爵列品」の項目に、「この官爵、下種(げす)の極官なり」とあるように、士族が昇格できる最上位である。功績のある黄冠の士族に、特別に紫冠を賜ったのが親方の始まりとされる。, 王族が儀典関係の閑職につくのに対して、親方は政治の実務を担当し、投票で選ばれれば三司官に就任した。王子から親方までは、それぞれ一間切の領主とされていたので、琉球では大名(デーミョー)と呼ばれた。しかし、前述したように、実際には脇地頭職に留まる「小名級」の親方の方が多かった。, 琉球の士族は、一般に親雲上(ペーチン)と呼ばれたが、その中でも采地を賜ったもの、すなわち地頭職にあるものは親雲上(ペークミー)と発音して区別された。親雲上に相当する階層を、古琉球期には「大やくもい(大屋子もい)」と呼んだ。「もい」は敬称接尾辞、「大やく」は語源不明であるが、「大役」すなわち重要な役職に就いた者を意味するのではないかとする説もある。それゆえ、後世の親雲上(訓読みで、おやくもうえ)という称号は、この「大やくもい」の当て字である。, 親雲上(ペークミー)も世襲ではなく、努力次第でなることができた。さらに功績を積めば、親方位に昇格した。なお采地ではなく、名島(采地の名のみ)を賜った場合はペーチンと発音した。黄冠を戴き、銀簪を差した。, 正五品以下の士族は一般士族に相当する。一般士族とは采地を持たない無録士のことで、琉球では「ブンニン」と呼んだ[3]。五品、六品に昇るのにも大変な努力が必要であったが、さらに四品以上の上級士族に昇格するのは、困難を極めた。, 一般士族には、里之子家(里之子筋目)と筑登之家(筑登之筋目)という二つの家格があった。里之子家は中級士族、筑登之家は下級士族に相当する。里之子家では、子 → 里之子 → 里之子親雲上 → 親雲上と出世していくのに対して、筑登之家では子 → 筑登之 → 筑登之親雲上 → 親雲上と出世していった。初位はいずれも子である。, 里之子家と筑登之家の家格は固定したものではなく、筑登之家出身であっても功績を積めば親方位まで昇ることができた。その場合、里之子家に昇格した。また里之子家も功績がなければ、筑登之家へと降格した。, 譜代とは古くからの士族の家柄、新参とは新たに士族になった家柄のことを言う。具体的には1689年の家譜編纂の時に、尚寧王代以前から仕官していた家柄を譜代とし、その後の仕官者、またそれ以前から仕官していても天啓・崇禎年間(1621年 - 1640年)に子孫が仕官していなければ新参とされた[4]。, 新参はほかに、訴後れ(うったえおくれ)、勲功、献金によって士族となった家柄もあった。「訴後れ」とは、1690年の家譜給賜の時点で士族と認められず、のちに申請した者達、具体的にはかつて仕官していた者やその子孫、田舎に下っていた者、進貢船の船員、近郊間切の地方役人等のことである[5]。勲功は王府に功績のあった平民、献金は王府に多額の金銭(銅銭16万貫)を納めた者や私費で公共工事を行い、王府より認められた者達のことである。, 里之子家の者が正七品に昇格すると、里之子親雲上を称した。黄冠を戴き、銀簪を差した。地頭職に任じられると、親雲上(ペークミー)を称した。, 筑登之家の者が従七品に昇格すると、筑登之親雲上を称した。黄冠を戴き、銀簪を差した。地頭職に任じられると、親雲上(ペークミー)を称した。, 里之子と同じ発音であるが意味は異なる。里主とは総地頭家や脇地頭家の嗣子で、家督を継いだがいまだ黄冠以下の位階(正従八・九品)の低い者を指す。例えば、親方家や親雲上家など、采地を有する名家を継いだが、当主はいまだ若年であるような場合に、里主と称した。里主とは、元来は領主の意である。, 琉球の位階制度は、昇進速度が年限によって決められていたので、名家の家督を継いでも直ちに特進するわけではなかった。按司の嗣子は初位から按司に陞るが、これは例外である。, 譜代の子弟で、無位の者を子と称した。カタカシラを結う(元服)と赤冠を戴き、銀簪を差した。, 新参士族の子弟で、無位の者を仁屋と称した。銅簪を差した。カタカシラを結う(元服)と緑冠を戴いた。上級平民(村役人など)の子弟で無位の者も同じく仁屋と称した。, 琉球では、平民一般を百姓と呼んだ。首里・那覇・久米村・泊村に居住する者を町百姓、それ以外は田舎百姓というふうに呼ばれた。地方百姓のうち、地方役人に取り立てられた者は筆算人と呼ばれた。系図を持たないことから無系とも呼ばれた。真鍮の簪を差した。, 地方官吏のことを地方役人(じかたやくにん)という。筆算人、オエカ人(オエカは役職の意)とも呼ぶ。地方役人には大きく分けて間切役人と村役人の二種類がある。また沖縄本島及び離島と両先島との間にも役人制度に相違があった。, 地方役人は身分は百姓(平民)であったが、上級役人になると「オエカ地」(役地、役職に応じて与えられる土地)が与えられ、王府への上納分以外は自分の取り分となった。他にも、夫地頭になると村の百姓を年2回使役できるなど種々の特権があった。このため、中間搾取や地位乱用をする悪徳役人も多く、方言のウェーキ(財産家)の語源はここから来ているという。, このことは、尚灝王の「上下やつめて、中や蔵立てて、奪い取る浮き世、治め難しや」(士族や百姓は生活を切り詰めているのに、中間にいる地方役人は蔵を建てて搾取している。治めがたい世の中である)という嘆きの琉歌からもうかがえる[6]。, 地頭代(じとうだい、方言でジトゥデー)は、間切行政の現地最高責任者で、現代の村長に相当する。『球陽』の尚寧23年(1611年)の項に、「王、諸群ノ按司掟(あじうっち)ヲ裁チテ、始メテ地頭代ヲ建ツ」とあり、薩摩侵攻以後に設けられた役職である。身分は百姓であったが、在職中は名島として親雲上の称号を許され、「……親雲上」と称し、黄冠を戴いた。, 夫地頭(ぶじとう、方言でブージトゥー)は、地頭代の補佐役。非常勤で、任期は一般に3年、定員は間切によって2~8名。, 首里大屋子(シュイウフヤク)、大掟(ウフウッチ)、南風(フェーウッチ)、西掟(ニシウッチ)の4人を捌理(さばくり、方言でサバクイ)と呼んだ。捌吏、捌庫理の文字を当てる場合もある。捌(さばく)は裁く、処理するの意味の方言で、事務を処理するという意味と推測される。地頭代、もしくは夫地頭の下に位置する地方役人のエリート。, 文子(ティクグ)は、間切中の下級役人。階級や職種によって、大文子、島文子、相附(あいつけ)文子、脇文子、若文子、見習文子等の呼称がある。人数は比較的多く、例えば西原間切で66人、宜野湾間切で63名いた。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=琉球の位階&oldid=78711972. 明治21年(五高中) 63 54 4 (b) 呉文聡, 1882,「人員表」『統計集誌』8号, pp. ・1679 年:羽地朝秀(摂政)、士族へ系図提出を命ず。→筋目の確認と同時に、士族も確認 ・1689 年:系図奉行の設置(翌年、系図座の設置)→士族へ家譜の編集を命ず。氏・名乗 も各門中ごとに定められ士族層の確定へ。[島津 139 31 明治23年(全高中) 1 66.1 16,259 1689年に王府が家臣団に対し、家譜の編集・提出を命じたことによって制度化された。. 33.9, 56.8 筑登之の階級は基本的に無禄であったが、王朝時代に私有地を獲得していたため、禄を受けていた上級士族よりかえって豊かになること … 明治25年(全高中), 一連の教育制度が整い、族籍に関わらず進学の道が開かれる一方で、官吏登用の面でも国民に広く任用の機会が開かれた。明治20年(1887年)、文官試験試補及見習規則が整い、能力試験に基づく官吏任用が始まったが、士族の子弟の任用は低くても2割から3割を占めた(以下の表 文官高等試験(行政科)合格者族籍別構成参照)。地方吏員の任用も、戸長以外の区郡長や書記などの公職にも見られ、士族が転向を含めて各職業の母体として存在していたことがわかる。, 28 19,912 82, 37 31 28.3 12 36.2 2 42 19 19.1 27.9 44 今でこそ各家庭に仏壇があり、そこに位牌が安置されていますが、15世紀~17世紀の琉球王家や上流の士族の先祖供養の仕方は異なり、お寺に位牌を安置しての位牌祭祀が執り行われていました。しかし、1781年編纂の『球陽』による 約400年もの長い間続いた琉球王国は、中国大陸の明王朝との朝貢貿易と中継貿易によって莫大な利益を得ていて、有力士族はこれら貿易を利用した私的な貿易によって私益を得ています。 80.0 44 42, 21 22 5 17 115 41.5 130 琉球家譜目録データベース. 69.6 95 この沖純の門中ですが、琉球王朝時代、王府が士族に対して、きたといわれる 「家譜」あるいは「系図」の提出を命じ(1689年)、家譜をもつ スライド6 家を士族、そうでない家族を百姓としたところに由来 … 琉球王国で家系図を持てたのは士族と呼ばれる人々だけで、その中でも一際身分が高い家は500もありません。 先祖が一際身分が高ければ、娘が王の妃として嫁いだり、逆に王の娘を娶ることで、王と親戚関係になれる可能性は十分にあります。 0 63.8 21 97 37 24 1972年に本土復帰。. 24 52.0 38 148 0 士族も「家譜」以前は、歴史的、地理的に分化を繰り返していたはずであり、「家譜」の元祖は古くても江戸時代をいくらもさかのぼらない。門中の拡散と分化は、日本の中世の武家の「家」と類比してみることができる。 30.2 18 62.1 24 31.1 58 27.8 1982年の10周年記念に那覇市と沖縄県教育委員会の「復帰10周年記念事業」で氏族を調べる事業を実施し「系図をもっていないか」と一軒一軒家庭に電話をして、系図が集まったようです。. 39 30 1 1 53 26 0 門中(もんちゅう、琉球語:ムンチュー)は、沖縄県における、始祖を同じくする父系の血縁集団のことである。 門中は、17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達し、のちには本島北部や離島にも拡がった。 琉球士族は、地域的な分類から、主に首里士族、泊士族、久米士族、那覇士族に分かれる(注1)。ここから空手も、首里手、泊手、(久米村手)、那覇手と分類されているわ… 0, 16 39 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 02:54 UTC 版), 明治政府により琉球王国が琉球藩とされた後、王子を華族の構成員とし、位階を持つ筑登之以上の階級のものが士族とされた[15]。筑登之の階級は基本的に無禄であったが、王朝時代に私有地を獲得していたため、禄を受けていた上級士族よりかえって豊かになることもあった[16]。, 明治6年(1873年)以降年々、国民の総人口及び士族人口も増加傾向をたどったが、総人口に占める士族の割合は、士卒合併がほぼ完了した明治7年(1874年)の5.6%からほぼ単純減少を示している。平民の自然増に加え、士族の世帯から長男以外の男子が分籍して平民に移行することも原因として挙げられる[17]。, 「階級」としての武士が平準化を迫られた一方で、江戸前期まで支配を担ってきた階級として、扱いに困っていたが、明治新政府は藩閥制度より率いられた政府であり、役人も当初は各藩からの「徴士」「貢士」という人材供出より始まったものであるため、版籍奉還後も藩主は藩知事、旧藩士たちは藩吏として務め、府県に移行した後も奉職した者も多い。明治14年(1881年)段階の中央や地方官における士族の官職保有率の割合を見ると、官員総数が約7万8000人のうち、士族の任官者は約5万2千人、地方郡町村吏においても約9万2千人のうち士族の割合は1万5千人と、比較的高い割合を占めていた[21]。従一位から従八位までの有位者の割合も明治17年(1884年)から明治36年まで7割から6割の間で推移していた(しかし授与された有位者は士族を救済する役目もあったため、割合は多めである)[22]。このことから、族籍としては特権を失う一方、明治新政府や地方行政の中では既得権益を維持した士族もいたことがわかる。なお、官吏は募集人数が少なかったため、全ての士族が就けたわけではなく、転向する羽目となった士族が多い。後に下記の通り選抜が実力化されると、割合としては急激に減少していき平民に置き換わっていった。, 士族は比較的良い教育水準を持っていたとされる。明治期に官立大学と高等教育機関の整備が進められ、当時の『文部省年報』を見ると旧制高等中学校の学生に占める割合は、明治前期にあたる明治19年(1886年)から25年(1892年)までの統計でおおむね半数近く、低い年度でも3割強を占めた。明治43年の統計では大幅に割合が低下するものの、それでも3割に近い割合で士族が難関中学・高校へ進学していることが確認される[25]。明治前期は割合がやや多かったが、明治中後期になると数値が目立たなくなり、各入試の制度が確立されたことによって平民の数が増えていき数値としては逆転したものとなっていった。, 明治20年(一高中) 119 中(もんちゅう、琉球語:ムンチュー)は、沖縄県における、始祖を同じくする父系の血縁集団のことである。門中は、17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達し、のちには本島北部や離島にも拡がった。 1 八重山系家譜(大宗・小宗)の出自について 1500年「オヤケアカハチ・ホンカワラの乱」に琉球王国へ忠誠を誓った石垣島出自のイ.長田大翁主、ロ.那礼当、ハ.仲間満慶山、波照間島出自のニ.明宇底獅子嘉殿らの子息たちを八重山の役人(頭・首里大屋子・与人・目差・他)に抜擢している。 92 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)23頁より転載。ただし表枠組を一部改編。, 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)98頁より転載。ただし表枠組を一部改編。なお、資料は『日本帝国統計年鑑』を下に作成されている。, 竹内洋前掲書(中央公論社、1999年) 173頁より転載。数値は『文部省年報』より集計され、五高中のみ『五高五十年史』(1939年)巻末資料付録を参照し作成されたものである。, 竹内洋前掲書(中央公論社、1999年) 173頁より転載。数値は各学校一覧を参照し作成されたものである。, 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)86頁より転載。ただし表枠組を一部改編。なお、一連の資料は秦郁彦著『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(東京大学出版会、1981年)参照の下作成されている。, 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)87頁より転載。ただし表枠組を一部改編。なお、一連の資料は秦郁彦著『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(東京大学出版会、1981年)参照のもと作成されている。, 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)90頁より転載。ただし表枠組を一部改編。なお、一連の資料は『日本帝国統計年鑑』参照のもと作成されている。, 官員(中央・府県道の文・武官、司法官、監獄官、技術官)総数7万8328人(うち士族5万2032人), All text is available under the terms of the. (a) 呉文聡, 「府藩県所轄並石高」, 『統計集誌』5号, pp. 26 16,059, 官吏以外では、教員の職も重要な職業選択の道であった。中学校・高校・師範学校の校長、教員、書記の占有率は明治15年(1882年)で多くを占め、小学校でも、半数程度の占有率を有し、事務員に至ってはほぼ士族であった(以下の表 全国公立学校職員族籍別構成参照)。なおデータは明治初期のものであるため、こちらについても後に平民に置き換わることとなっていく。, 以上のように、士族は社会的優位性や特権など制度的な恩典を喪失しつつ、明治中期までは日本である一定の水準などといった社会的な地位の一端を担ってきた。, これら士族に何らか恩恵があるとすれば、わずかに第二次世界大戦前まで履歴書や『紳士録』の類に士族という記載が残り(「○○県士族」)、学校卒業生には卒業証書に、大学で学位を授与された者は学位記に、士族の族称が併記された。そうしたわずかな慣習が幾分か名誉的な意味を持ち、家柄を誇る気分を士族に与えた。, 士族の家庭の墓石には「○○県士族 何某之墓」と彫った例も見られる。新潟市の泉性寺にある皇后雅子の曽祖父小和田金吉の父とされる小和田匡利(明治7年(1874年)7月28日没)の墓碑には「新潟県貫族 士族村上住 小和田匡利」と刻まれている[31]。, 戸籍の族籍記載は1914年(大正3年)に撤廃され、第二次世界大戦後、士族の族称は廃止となった。その後も戸籍法改正で族称を表記しないことに定まったが、原本には残っていたため、1975年(昭和50年)ごろまでは旧戸籍謄本を取得した場合には「士族」と明記されていたため、わずかに出自として士族であるか否かを知るすべが残ることとなった。, しかし、それでも戸籍上の記載も昭和43年(1968年)、族称が記載された近代では最古の戸籍である壬申戸籍が結婚や就職に際し、かつての被差別階級特定のために悪用されている経緯が明らかとなったことから、法務大臣の命により閲覧禁止の措置がとられ、以降の明治19年式戸籍においても族称記載がある部分は塗沫され、族称を閲覧することが完全にできない状態となり、士族の法的な意味合いは完全に消滅したといえる。, 戦後に内閣総理大臣を務めた岸信介は自伝の中で、生家の佐藤家について「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、ことに曽祖父・信寛の威光がまだ輝いていた。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである」と述べている[32]。佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという[33]。, また、終戦直前期に内務大臣を務めた安倍源基は『思い出の記』の中に「私は裕福ならずと雖も士族の家に生まれ、寒村なりと雖も故郷をもったことは誠に幸福であった。…安倍家が士族であったことと、故郷をもっていたことは常に私を鞭撻し、心に活を入れて呉れた。…士族は華族と異なり何等政治的特権をもっている訳ではなく、ただ武士の家柄に対して、明治維新後与えられた族称に過ぎなかったが、士族の家柄は一般から尊敬を受けたものである…」と記している[34]。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, 明治5年から明治9年までの統計は『国勢調査以前日本人口統計集成』収録の『内務省戸籍局年報』による。. 16,352 31.1 56.1 29.7 2 32 38.1 39.6 琉球では士族のことを「系持ち」と呼び、平民を「無系」と呼ぶのもここから来ている。 前回の紀州藩の系譜と琉球の家譜の違いは、まず家紋の有無である。紀州藩の系譜では、冒頭に家紋(本紋)、替紋、幕紋の3種類が記載されて 61.9 琉球王府時代に王府の許可を得て作成された士族家譜は、士族の門中についての一級の資料であり 大宗家が持つ正統の家譜と、王府から許されて大宗家から分立した小宗家の支流の家譜、その支流か 36 琉球家譜の大きな特徴の一つは、士族の個人に関わる公文書という点にある。 すなわち、1689年に 首里王府内に常置の部署として系図座が設置され、士族の家譜を編纂する体制がとられるようになっ た。 明治20年(三高中) 30 69.1 24 173 22,028
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